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シベリウス:交響曲 第2番

筆者には、この曲の解釈について、「フィンランドの勝利を描いた作品」とするものが主流なように感じられる。しかしながら、この解釈は実のところ、シベリウスの友人だった指揮者ロベルト・カヤヌスに端を発するらしく、シベリウス自身は否定した、との話も残っている。シベリウスはこの第2交響曲の作曲と重なって、イタリアを訪問している。特に第2楽章にはその影響が色濃いという学者が多い。本当の解釈などは、作曲者自身しか知りえず、だから様々な解釈があって当然だが、それにしても、作曲者自身が否定した解釈が主流とは、いささか妙な話だと思うのは、筆者だけではあるまい。「愛国交響曲」の二つ名を持つ。

さて、シベリウスは自身の交響曲の作曲作業について「霊媒のようなもの」と表現している。専門家達の目から見れば、形式を破壊した、「交響曲」とはとても呼べないような代物を、しかし彼自身は、これぞ「交響曲」である、と考えた。彼は、多くの専門家達が「交響曲とは形式である」と考えた中で、「交響曲においては、その内容によって形式がきまる」と考えた数少ない作曲家であったようだ。彼の交響曲には、3楽章までしか存在しないもの(第3、第5交響曲)や、全部つながって1楽章しかないように見えるもの(第7交響曲)などさえあるのである。

しかしながら、彼も形式をまったく無視して作曲していたわけでは無い。先に交響曲の定義から書くべきだったかも知れない。交響曲とはハイドンが確立してベートーヴェンがその形式を発展させた作曲技法で、急緩急急の4楽章が普通である。1、4楽章はソナタ形式。2楽章はゆっくりしていて、3楽章は軽妙である、というのが大まかすぎるほど大まかな骨格となる。シベリウスが形式を無視していたわけではない証拠に、このガイドから見れば第2交響曲は形式とそう大きくかけ離れたものでは無い。3、4楽章がつながっている所などから、構造的にベートーヴェンの第5交響曲(日本では通常「運命」と呼ばれる)を模したのではないかという説もあるそうだが、いずれにしても、ルールに沿った形で作曲されていたことだけは確かであろう。

話は戻るが、構造上ベートーヴェンの「運命」に似ていることが、この曲と「フィンランドの勝利を描いた作品」とする解釈とを結び付けたのかも知れない。
「運命」もこの第2交響曲も3楽章と4楽章がつながっている。
「運命」の鬱積した3楽章から精神的解放を表す4楽章への流れが、第2交響曲における抑圧されたフィンランド人と、その解放という解釈を導いたように思えるが、あながち間違いではないかも知れない。

第1楽章 ニ長調 ソナタ形式

CDを聞くと、デッキが壊れてのではあるまいかと思わせられるようなスタート。
5回も同じ和音が繰り替えされた後、ようやく一部で音が変わる。
シベリウス本人が「フィンランドの風景を描いた」と言った通り、極めて牧歌的かつ田園的。
連想させられるのは、陽に輝く湖であり、丘陵のような「青」と「緑」、そして「白」。
冬の張りつめた鋭い空気。
東京ではあまり望めないが、雪の降る日にこの曲を聴くと、あまりの郷愁に胸が熱くなること請け合いである。
地面の下がもれなく氷という、本当に凄絶な冷たさを感じさせてくれるが、ロシア人作曲家のような何やら暗い雰囲気は無い。
キラキラとした冷たさという印象を持つ。

さて、ソナタ形式とは一体なにかというと、基本的に2つの主要なフレーズをいじくり廻して曲を作る、ということなのだが、それなりのルールがある。
力強い第1主題と少し嫋やかな第2主題が、登場し(提示部)、からみ合い(展開部)、安定する(再現部)という3部形式で書かれるのがそれだ。
まず、壊れたCDデッキのフレーズ(弦楽器による四分音符の連続)のあとに出てくる木管楽器主体によるフレーズが第1主題。
何度か強調して登場してくれるおかげで、比較的分かり易い。
第2主題は第1主題よりもむしろ力強い感じも受けるが、弦楽器のピツィカート(弦を指先ではじく奏法)40連打の直後に登場する。

その後、冒頭のCDデッキのフレーズから、木管楽器によって静かに第2主題の展開が始まる。
ここから、曲の雰囲気が次第に混沌とした盛り上がりを見せる。
第2主題の長い展開の後、金管楽器による頂点を迎えたところで曲は再現部に突入する。
この辺は曲の前半と構造がほとんど同じなので、分かり易いのではないだろうか。

第2楽章 ニ短調

上手くいけば本当に美しい楽章である。
ゆったり物憂気に、民謡調のファゴットが口火を切る。
この楽章を聞いていると、確かにフィンランドの人々の生活を描いたのではないかと思いたくもなる。
真偽の程はさだかで無いのだが。

イタリア訪問の話である。
ドン・ファン伝説に触れたシベリウスは、この楽章の所々にそこから受けた印象を挟み込む。
例えば冒頭のファゴットによって率いられる一連のフレーズがそうらしい。
あるいは、楽章の最後になって登場する木管楽器群による無気味なトリルはドン・ファンの哄笑と呼ばれているそうだ。
この楽章は、大きな音で奏でられる所よりもむしろ、控えめに演奏される場所こそ美しいので、よく耳を澄ませていていただきたい。

第3楽章 変ロ長調

スケルツォとトリオである。
冒頭紹介した交響曲における第3楽章のルールがこれで、意味的にはスケルツォがトリオを含んでいる場合が多い。
戯けた感じを持つ器楽曲というのがスケルツォの真意らしい。
トリオとは、戯けたフレーズのうちにゆったりとしたメロディアスなフレーズを挟み込むことをさす。
挟み込まれたフレーズだけを指してトリオと呼ぶこともあるようだ。
また、スケルツォもトリオを挟むフレーズだけを指していうこともある。
この楽章では、トリオが2度登場する。

さて、戯けているかどうかは別として、軽妙である。
速い。
弦楽器群による掛け合いがひたすら続く。
トリオではホルンの支えのなか、オーボエとフルートが牧歌調のフレーズを奏で、クラリネットやチェロのソロが合の手をいれる。
2度目のトリオでは、このチェロのソロから曲がいよいよ雰囲気を変化させる。
ここで、ベートーヴェンの運命はスケルツォを膨らませて4楽章に入るが、この第2交響曲ではトリオを膨らませて4楽章に入るという違いが見える。

第4楽章 ニ長調 自由なソナタ形式

3楽章においてチェロから導かれた弦楽器群によって盛り上げられた曲装はその頂点でフィナーレを開始させる。
十分なリタルダンド(遅くなること)の後、ゆったりと弦合奏によって奏でられるのが、4楽章の第1主題となる。
2楽章とは別の意味で本当に美しい。
第2主題はずいぶん後、ヴィオラとチェロによる吹き荒れる冷たい風のような音形の上に乗る木管楽器によるフレーズがそれだ。
第2主題の呈示終了後、第1主題の展開が始まり、再びフィナーレを再現する。
第2主題の再現では後半、木管楽器も風のフレーズに参加し、途中一度凄まじい木枯らしを表現する。
その後、一瞬静まりクライマックスに突入する。