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交響曲というもの

広い意味で交響曲とはハイドンによって音楽界にもたらされ、ベートーヴェン(以下楽聖)の手で管弦楽曲作家にとっての作曲における最高峰的存在にまで高められた、管弦楽のためのソナタである。
極めて形式的な構造であるが故に、時代とともに規模、演奏時間とも巨大化していったが、もとをただせば10分前後の管弦楽小品群と、何らかわるところはない。

さて、楽聖は言うまでもなく偉大な作曲家である。
交響曲の世界において、ブラームスが師であるシューマンの4曲を越えることがなかったように、シューベルトブルックナードヴォルジャークマーラーといった大作曲家たちが一般的な意味で、楽聖の9曲を越えなかったことは、何か象徴的な意味を持つような印象すら受ける。
もちろん、彼らが意図的に楽聖以上の数を遺さなかったわけではないだろう。
偶然の要素も多いにちがいない。
しかし、楽聖以降の交響曲作者にとって、楽聖は偉大な先駆者であるとともに、余りにも高い壁であったことは想像に難くない。
それは曲数の問題だけではなく、交響曲に取り組むための姿勢、エネルギーなどの点においてこそである。

ところでオペラの作曲と交響曲の作曲はどうも相容れないものであったようだ。
それが証拠に、オペラ作曲家として名を馳せるほとんどの作曲家が、交響曲を残していない。
そしてまた、逆も真である。
あの楽聖をもってしても、オペラで「名作」を残すことはできなかった。
同じ作曲作業でもオペラと交響曲では全く勝手が違ったのだろう。

話を戻して、交響曲であるが、大雑把に見ると第2楽章に緩叙楽章、第3楽章にスケルツォ楽章を置き、それらをソナタ形式の楽章で挟み込む構造をしている。
ソナタ形式は大まかに言えば3つの部分からなる構造を持ち、これを三部形式と呼ぶのだが、成り立ちとしては料理番組に似ていなくもない。
すなわち、第一部では材料(複数の主題)と調味料(経過区)を紹介し(呈示部)、第二部において、それらの材料や調味料を実際に調理し(展開部)、最後にもう一度レシピを紹介する(再現部)。

なお、古い交響曲においては、呈示部をくり返すことも多いのだが、演奏する側からすれば、まったく同じことを2度やるのは、現代消費社会の原則に反するし、面倒だしで、あまり嬉しくないのである。
実際、たいていの演奏会で、繰り返しは端折られる傾向が強い。
これは、プロアマ問わず、である。

スケルツォ楽章も、ソナタ楽章と同じく三部形式であり、中間部を「トリオ」と呼ぶ。
いや、スケルツォ楽章に限らず、三部形式の中間部分は「トリオ」と呼ぶものなのだ。
話は脱線するが、この「トリオ」の語源は「3重奏」のトリオである。
昔(といってもどれほど昔かは存ぜぬが)は三部形式の中間部分は三声(簡単にいえば三重奏)で演奏されるものだったそうだ。
そこから転じて、三部形式の中間部は「トリオ」と呼ぶようになったらしい。
トリオではがらりと曲がイメージを変えるのが一般的だ。

スケルツォとは、元来「悪戯、冗談」といった意味を持つイタリア語であり、メヌエットに代えて楽聖によって導入された。
語源の通り、軽妙な三拍子であり、トリオでは、これを受けてゆったりとした歌い上げるようなワルツが登場することが多いようだ。
ただし、緩叙楽章とスケルツォ楽章には、ソナタ楽章ほどの厳格な規則はなく、必ずしも緩叙楽章とスケルツォ楽章である必要はない。
古い交響曲ならスケルツォ楽章はメヌエットであるし、作曲家によってはワルツだったりもする。
更に1楽章しかない交響曲などもあることから見ると、ソナタ楽章さえ持っていれば、楽章にすら制限はないようである。