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ブラームス:ドイツ・レクイエム

ブラームスは遅筆なことでよく知られています。
例えばピアノ協奏曲第1番に4年を費やしていますし、このドイツ・レクイエムにしても10年以上かけて書いています。
中でも最も有名なのが交響曲第1番で、19年もかけて作られました。
もちろん、かかりっきりになっていたわけではなく、他の曲と平行して書き進めながらですから、遅筆というよりは慎重、完璧主義ととらえた方が正しいのかも知れません。
しかしそれでも、1曲に10年も20年も費やすような作曲家は他にあまり例をみないのです。

この作曲に対する思い入れは、彼の性格的なものに端を発しているのだと思われます。
彼はとても引っ込み思案だったそうです。
音楽界での大先輩リストに紹介されたときにも、ピアノを弾いてみてほしいとリストに頼まれたのに、緊張のあまり弾くことができないと答えてしまいました。
結局リストとの関係はこれ以降発展することがなかったのです。

そんな彼ですから、特に目をかけている曲は世間に出しても決して批判されるようなことになってほしくない、と考えていたとして不思議はありません。
慎重に慎重を重ねたのでしょう。
だからこそ、これだけ遅筆になってしまったのだと思われます。
もっとも、批判されたくて曲を世に送り出す作曲家なんていないと思いますけれど。


さて、ドイツ・レクイエムですが、作曲にいたる詳しいことはあまり解明されていません。
ただ、その着想がシューマンの死だったことだけは、確かなようです。

レクイエムというのは音楽の形式です。
カトリック教会でのミサ用の曲で、ラテン語の歌詞がつきます。
大体7つの部分からなっているようですが、ドイツ・レクイエムも5楽章を7つの部分に分けて解釈するのが一般的なようです。
ルターが翻訳したドイツ語聖書から歌詞を抜粋しているドイツ語のレクイエムなので、ドイツ・レクイエムと題されています。
あくまでも演奏会用の曲です。
ブラームスの信仰についての資料が見つからなかったので、想像に過ぎませんが、この曲をミサ曲にしなかったのは、ひょっとすると信教上の事情かも知れません。


時代背景としては、ドイツという国家がいままさに成立しようとする過程で、かなり政情不安定だったと想像されます。
作曲中の1864年には故郷プロイセン(現ドイツ)とオーストリア帝国が共同でデンマーク戦争を起こします。
その翌々年、1866年にプロイセンオーストリア帝国を挑発し、7週間で集結する普墺戦争が勃発します。
また、完成の4年後のことになりますが、1870年には普仏戦争も起こっています。
つまり、ブラームスの母国プロイセンは6年の間に3度の戦争を起こしているのです。
ちなみに3度とも、プロイセン戦勝国となっています。


シューマンブラームスの関係は、1853年にブラームスシューマンの家を訪れたことからスタートします。
ブラームスは偶然手に入れましたシューマンの未発表曲の楽譜に「自分と同じ魂」を目にしました。
そして感動の余りもはや居ても立ってもいられず、シューマンの家の扉を叩いたのです。
引っ込み思案のブラームスがいきなりシューマンの家を訪れたのですから相当な覚悟だったことでしょう。

シューマンとの出合いは大成功で、無名だったブラームスはここで一躍知名度を手に入れることに成功しました。
しかし出合いからたった5ヶ月で、シューマンは自殺を企て精神病院に収容されてしまいます。
この原因について、シューマンが妻クララとブラームスの関係を疑ったためという説もあるようです。
クララがブラームスシューマンの、ちょうど狭間の世代だったことを考えると、シューマンが上のような疑惑を持っていたと考えられるのも無理はないのかも知れません。
ただ、シューマン家はもともと精神に異常を来しやすい家系だったことは確かなようです。

この2年半ののちに、シューマンは収容先の病因で亡くなってしまいます。
楽家としての人生をスタートさせてくれたシューマンに対して、ブラームスは非常な恩義を感じていたことでしょう。
シューマンの死にあたり、レクイエムを作曲しようと決意したとしても、まったく不思議はありません。


以下は筆者の独断ですが、この曲の完成をもって、ブラームスの作曲家としての前半期が終わったのではないかと思われます。
振り返ってみれば、人生としてもほぼ中間点だったわけですが、これ以前の33年間は作曲家としての熟成の時期だったのではないでしょうか。
ブラームスの大規模な代表作は、全てこれ以降に作曲されています。
ピアノ協奏曲第2番、ヴァイオリン協奏曲、そして4つの交響曲です。

さらに重要な点は、ドイツ・レクイエムとまったく同じ年に、ワーグナーによる『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が完成したことです。
ブラームスワーグナーはこれ以降、本人たちの思惑はまったく別にして、対立関係に祭り上げられるのです。
対立関係に祭り上げられたということは、当時ドイツの2大巨頭だったと解釈することができるでしょう。
それはすなわち2人がドイツ人にとって誇るに足る作曲家になったということです。


こうしてブラームスはドイツを代表する作曲家としての第一歩を記したのです。