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交響曲 第5番 ホ短調「運命」

チャイコフスキーは6曲の交響曲を作曲した。
このうち、1〜3番を前期交響曲群、4〜6番を後期交響曲群として、区別するのが一般的である。
演奏機会は、圧倒的に後期交響曲群の方が多い。
特に第五交響曲は、アマチュアオーケストラの世界において、他の作曲家の曲を合わせたとしても圧倒的な演奏機会を誇っている。
もちろん、第5交響曲に「運命」などという副題はおろか、慣用名すら付いてはいない。
この場のためだけに筆者が勝手につけた、言ってみればあだ名である。

後期交響曲群はいずれも「運命」を題材にしていると言われる。
第四番は悪妻アントニーナに嫌気がさして(かどうかは知らないが)自殺未遂した年に、第五番はその十年後、第六番は十五年後の、亡くなる直前に作曲されている。
第六番は「悲愴」の副題が指すとおり、ごく個人的な、しかし抗えない悲劇を表現しているように感じられるが、四番と五番はむしろもっと普遍的なものを表現しているようだ。
なお、「悲愴」は誤訳ではないのか、と筆者は常々いぶかしんでいる。

ところで、交響曲で「運命」といえば、楽聖ベートーヴェンによる第五交響曲たる金字塔がすでに存在している。
余談であるが、楽聖の第五交響曲を「運命」と呼ぶのは日本だけの習慣であり、実際には楽聖の第五交響曲に副題は存在しない。
外国で「運命」と言っても、通じませんよ、たぶん。

さて、ここで問題なのは、第四交響曲での「運命」は重くのしかかったきりで、『楽聖の第五交響曲』にみられる「運命への勝利」みたいなものは描かれていないのに対し、第五交響曲では、楽聖と同様、第四楽章において「運命への勝利」を描いていることではないだろうか。
第四交響曲作曲に前後して、入水自殺を企てていることを思い出していただきたい。
これはとても興味深い事実と言えよう。

なお、チャイコフスキーの楽曲におけるダイナミクス指定は相対的であり、前後関係、上下関係(総譜上での)の影響を非常に強く受ける。
たとえフォルティシモ(最強奏)の指定があっても、最強奏とは限らないので注意を要するとともに、合奏での徹底が要求されるだろう。
そもそも、「悲愴」に見られるようなピアノ(小さく)が5つも6つも並んでいる楽譜なんて、絶対的なダイナミクスとして受け取っていたら演奏不可能に決まってるのである!

それではこれより、チャイコフスキーが第五交響曲に織り込んだ、ドラマを紐解いていくことにしよう。

第1楽章

チャイコフスキーの第五交響曲には冒頭、「運命の動機」と呼ばれる旋律が登場する。
序奏部(〜37小節)においてクラリネットで奏されるホ短調の旋律がそれである。
この「運命の動機」はすべての楽章において象徴的に使われる。
このように、特定のモチーフを楽章をまたいで度々登場させるやり方を循環形式と呼ぶ。

この動機、大きく見れば8小節からなるフレーズだが、最も重要なのは最初の2小節なのだろう。
循環形式の曲においては、「いかにして聴衆に循環する主題を覚えさせるか」が課題になる。
チャイコフスキーはこの課題を解決するために、たった37小節しかない序奏において、冒頭2小節のモチーフを最初の呈示で2回。
次にリズムの要素だけにして2回。
更に念を押すように立続けに3回繰り返して、計7回登場させている。
実に序奏の3分の1以上をこの2小節のモチーフのために費やしているのだ。
循環主題を聴衆の記憶に刷り込むため、作曲者がいかに腐心しているのかが伺えるだろう。

さて、一楽章はソナタ形式であるからして、「運命の動機」以外にも主題となるメロディーがなくてはならない。
それが序奏部直後(42小節)からのホ短調による第一主題、116小節からのロ短調による第二主題、そして170小節からのニ長調による副次主題なのである。
後でまた触れることにするが、二つで十分なソナタ形式での主題を、わざわざ三つ用意した上での、ホ短調から属調であるロ短調、更にその平行調であるニ長調、という展開は、二楽章に向けての非常に大切な伏線となっている。

また、一楽章においては非常に頻繁に転調が繰り返される。
しかしながら、三楽章のトリオに見られるような無調性や、四楽章でのフレーズ単位の頻繁な転調とは違い、明確に打ち出された調が、フレーズ内において小節単位で交錯するのである。
これは聞き手に非常な不安定感を与える効果がある。
すなわち、文字通りこの楽章でチャイコフスキーが表現したかったのは「不安」や「見えない未来に対する恐怖」であると受け取ることができる。

第2楽章

この楽章について、作曲者は楽譜の隅に「『陽光』はさすが『希望はない』」というメモを残しているそうだ。
『希望はない』とは『絶望』と言い換えてもよいだろう。
このメモにある『陽光』を象徴するのが冒頭8小節と、その後に続く美しいメロディー群であり、『絶望』を象徴しているのが、循環主題である「運命の動機」だ。
特に冒頭8小節では『陽光』がさす瞬間が興味深いので、特にここを取り上げてみることにしよう。

実は冒頭8小節、最初の4小節はニ長調ロ短調か特定できないように作ってあるのだ。
つまり、どちらの調か特定するためのカギになる音を使っていないということである。
ではこの8小節をどのように理解すれば良いのか。

ここで、少し理屈っぽい話をさせていただこうと思う。
そもそも、西洋音楽の成り立ちとして非常に大きなウェイトを占めている問題がある。
「調性」だ。
はたして「調性」とは何だろうか。
これは簡単にいうと「ドレミファソラシド」のことで、これをハ長調と呼ぶ。
先ほど出てきた「ニ長調」だの「ロ短調」だのというのも「調性」の一種である。
ハ長調の「ハ」はイタリア語に直すと「ド」のことだ。
同様に、「ニ」は「レ」、「ロ」は「シ」を表す。
皆さんも一度ぐらいは「ハニホヘトイロハ」という「ドレミ」の日本語読みを聞いたことがあるだろう。

一般的にいって、「長調」は明るいイメージで聞こえ、「短調」は暗いイメージに聞こえる。
この原理については、心理学のような他の学問分野が絡んでくるものと思われる。
とにかくここではそういうものとしてご理解頂きたい。
つまり、ハ長調といえばドから始まる「ドレミファソラシド」の音階。
ニ長調といえばレから始まる「レミ(ファ#)ソラシ(ド#)レ」という音階を表すのである。
これらは、スタートの音が違うにもかかわらず、人間の耳には相対的に同じように聞こえるのだ。

「調」の中の音にはある程度役割がある。
たとえば「ハ長調」の第五音である「ソ」は属音と呼ばれ、調の中で重要な役割を占めている。
この役割関係は「調性」の世界にそのままシフトさせることができる。
すなわち、「ハ長調(主音がド)」とその第五音である「ソ(=ト)」を主音とする「ト長調」はとても密接な関係があり、「ハ長調」にとって「ト長調」は属調という呼び方をされる。
このように、ある調と、その第五音を主音としてもつ調は主調と属調と呼ばれ、交響曲においては特に重要視される関係なのだ。

ここで、この交響曲に目を戻してみると、二楽章はニ長調で終り、三楽章はイ長調で始まっている。
また、三楽章はイ長調で終り、四楽章はホ長調で始まっている。
これはいずれも属調関係での進行である。
そこで、ホ短調で終る一楽章をうけて、二楽章はその属調であるロ短調で始まっているとみてみよう。
すると、チャイコフスキーの言う『陽光』が音として「目に見えて」くるではないか。
ロ短調ニ長調に変化する、その劇的な場面転換点が5小節目の2拍目、楽章の始めから数えて10番目の和音から11番目の和音への変化で、この和音の移り変わりこそが『陽光』がさす瞬間なのである。
一楽章の主題が三つ用意されていたのは、前楽章の終わりからこの冒頭部分へ移り変わる、調性上の展開を分かりやすくするための伏線であったことは前述の通りだ。

あとに続くニ長調のホルンソロは「メロディーメーカー」チャイコフスキーの名に恥じない、とても美しい旋律である。
これをチェロによって再現させた後、45小節目からのヴァイオリンによる第二テーマは更に美しい。
第二テーマはNTTドコモのコマーシャルに使われたこともある。
すなわち、単品でもそれだけのインパクトが期待できるということだ。

しかし、やはり『希望はない』のである。
66小節目からは短調による暗雲がたれこみはじめ、99小節目でとうとう重苦しい「運命の動機」が登場する。
更にここでは楽聖ベートーヴェンの「運命の動機(有名な『ジャジャジャジャーン』)」のリズムまで背負う念の入れようだ。
チャイコフスキーはどうしても救われたくないらしい。

直後108小節よりふたたび陽光がさすのだが、157小節目でまたも『ジャジャジャジャーン』つきの「運命の動機」でどん底に突き落とされる。
このあと、三たび陽光が差してきて二楽章は終るが、『希望』に二度も「運命の動機」で水をさされた聴衆には、もはや素直にこの『希望』を信じることができないのである。

かくして、単純な長調で始まる第三楽章に、聴衆は悪夢を見るのだ。

第3楽章

通常ならばスケルツォ楽章であるが、この交響曲では「ワルツ」になっている。
あくまでイレギュラーではあるが、ワルツを選択するあたりはとてもチャイコフスキーらしいといえるだろう。
また、チャイコフスキーはイタリア語、ドイツ語、フランス語をあやつり、通訳として法務省で働いていたこともあるそうで、本来のスケルツォ(イタリア語)の意味である「冗談、悪戯」が、この交響曲を貫く運命の重たさ、やり切れなさといったものとは相容れないと感じたとしても不思議はない。
このような矛盾を嫌って、「ワルツ」を選択したというのは、十分にあり得ることではないだろうか。

さて、チャイコフスキーらしい幻想的なワルツだが、ただ幻想的なだけなら、この交響曲にはそぐわなかっただろう。
しかし、前述の通りチャイコフスキーは二楽章で伏線を張っている。
希望と暗転を2度繰り返すことで、希望のままに終るはずがない、と次の暗転を暗示したのである。
聴衆は無意識にこの長調のワルツを疑いの目で見る、否、疑いの耳で聴くことになる。

そこに用意されているのが72小節目からのヴァイオリンで始まるトリオである。
最初は4小節分あったモチーフが徐々に断片化し、支離滅裂な、混沌とした様相を呈する。
ここで幻想的な夢は急激に悪夢へと変貌を遂げるのだ。
この抽象的で調性のとらえにくいトリオこそ、「運命」交響曲と幻想的なワルツが共存するカギとして配置されたものなのである。

ところが、ここまでずっと悲劇を暗示していたはずの「運命の動機」は、この楽章においては悪夢のトリオにではなく幻想的なワルツの方に置かれている。
153小節目、トリオが終りワルツが再現したのちに、木管楽器による伴奏によって小さく、しかしはっきりと、悪夢が終わりを告げることを、そして第四楽章における勝利を、宣言するのである。

第4楽章

いきなり「運命の動機」で始めるやり方は一楽章と同じである。
三楽章の最後に、長調のワルツの中で短調を帯びながらも少し希望の色を持たせた「運命の動機」である。
ここでは完全に長調に塗替えられ、まさしく勝利のファンファーレの様相で高らかに鳴り響くのだ。
動機が弦楽器に登場するのも、初めてのことである。

だが、勝利のファンファーレの中に、一瞬ではあるが短調が登場する。
弦楽器から木管楽器に動機が移るあいだの、ほんの数小節の経過句である。
この一瞬は、非常に重要な一瞬であるといえよう。
なぜならば、聞き手に「おや?」と疑問を抱かせるには十分すぎる一瞬だからである。
そして、聴衆の疑問を裏付けるかのように、呈示部の第一主題は、短調で激烈に登場するのだ。

思い出していただきたい。
一楽章は不安を、二楽章は絶望を、三楽章では悪夢を描いてきて、いきなり四楽章での勝利のファンファーレ。
有り得ないのである。
人生とはそんなに甘いものじゃない、とチャイコフスキーは嫌になるほど知っている。
勝利には、運命に立ち向かい、切り開こうとする努力が絶対に必要なのだ。
そう、冒頭のファンファーレは、勝利に対する願望でしかない。
ここから、運命とチャイコフスキーの長い長い戦いが始まろうとしている。

呈示部第一主題は先ほども申し上げた通り短調で始まるが、約20小節で長調の経過句に辿り着く。
楽譜に二分音符メトロノーム120の指示があるので、単調区間は20数秒ということになる。
このあとの長調はなんとたったの2秒しかない。
こうして、短調長調が頻繁に入れ代わっていく大乱戦が繰り広げられる。

ようやくせめぎ合いが終るのは426小節目。
曲ももう終わりに差し掛かった、終結句の部分である。
ここで「運命の動機」が再現する。
例の一楽章冒頭2小節、最小単位のモチーフとして、短調のなか低音部セクションと高音部セクションでの最後のせめぎ合いが繰り広げられる。
一歩抜きん出るのが高音部セクション。
明と暗の対比で考えれば、当然だが高音部は明を意味する。
この明の最後の攻撃には楽聖の運命の動機まで駆り出され、その激しさを一層あおるのである。

やがて切れ切れに奏される四分音符は戦いの終わりを告げ、やってくるのは激しい半終止のあとの長い総休止。
聞き手は絶対にここで拍手をしてはならない。
絶対に、だ。
なお、「半終止」とは簡単に言えば「あまり終った感じがしない和音で終わる」ことであり、「総休止」とはまったくの無音状態のことだ。
あまりクラシックの演奏会に馴染みがなく、おまけに始めてこの曲を聞く方は、とにかく指揮者が腕を下ろして客席を向くまで拍手をしないことをお勧めする。
これが一番間違いないやり方だ。
おまけに、余韻を楽しんでいるようで、通っぽく見えるものだ。

さて、このあとは本当の意味での勝利のファンファーレだ。
実に100小節、四楽章の6分の1もかけて勝利を祝っている。
ところで、筆者は色々な媒体でもって、複数の現役作曲家たちが同じような内容を語っているのを目に、あるいは耳にしたことがある。
それは要約すればこのようなことである。

作曲家が交響曲を書くにあたって、第五番と第九番では必ずベートーヴェン(運命と第九)を意識してしまう。

たとえば第五番ならば、「運命」からモチーフを拝借するかしないかで、まず最初の葛藤があるものだ。
チャイコフスキーは二楽章でも登場させたように、楽聖の「運命の動機」を拝借する道を選択した。
そしてやはり、四楽章最後の「運命の動機」にも楽聖の動機を共演させているのだ。
当然今度は明るい長調である。

長調の「運命の動機」を高らかに吹奏するトランペットの楽譜には、ご丁寧に「行進曲風に、エネルギッシュに、『全力で』」との指示がある。
トランペット奏者にとってこの交響曲は十分にここまでだって疲れる曲である。
にも関わらず、フォルテが3つも並んでいて、おまけに『全力で』なのだ。
ちなみにフォルテが2つ並ぶとフォルティシモで最強奏の意味であるから、血も涙もないとは、まさにこのことだ。
しかし聞き手にとってはそんなことは問題にならないので、トランペット奏者たちが密かに、死に物狂いで断末魔の絶叫よろしく吹き鳴らしているファンファーレにつつまれて、客席は最高の開放感に浸るのだ。
生演奏に接する際には、是非トランペットに注目してやっていただきたい部分である。

チャイコフスキー最後の仕掛けは、曲の一番最後、激烈にテンポが早くなり、怒濤のように駆け抜ける歓喜の渦の、一番最後の部分である。
トロンボーンが大忙しになっている、その先だ。
曲はこのように終る。
「ジャーーン、ジャーーーン、ジャジャジャジャン」この最後の「ジャジャジャジャン」こそ、いうまでもなく楽聖の「運命の動機」のリズムではないか。
つまり、チャイコフスキー交響曲を自分で作った「運命の動機」で始め、楽聖の「運命の動機」で終らせているのだ。
これ以上ない程の楽聖に対する最敬礼ぶりが見て取れるだろう。

以上見てきたように、この第五交響曲においては、不安、絶望、悪夢、葛藤と歓喜、といった誰もが普遍的にもつ経験について非常に象徴的に書かれている。
普遍的であるということは、共感を得やすいということだ。
しかも、終楽章における高揚感、疾走感、爽快感は、演奏者をして我を忘れさせる程でもある。
なぜならば、この終楽章の特に最後の部分は、演奏者にかなり激しい運動を強要する。
したがって、脳内では多量のアドレナリンが分泌されていることは間違いなく、演奏者たちは総じて興奮状態にあると言って間違いないだろう。
この交響曲の終楽章を演奏することは、物理的に快感なのである。
共感を得やすく、物理的に快感とあれば、この交響曲が人気を博すには十分であろう。
マチュアオーケストラの定番レパートリーとなっている理由は、このあたりにあるのではないだろうか。